掲載資料
- 日々の干支・旧暦・27宿・六曜 (年月指定)
- 【定気法】二十四節気 -- 節 中気 土用 の日時刻 (年指定)
- 【恒気法】二十四節気 -- 節 中気 土用 の日時刻 (年指定)
- 新月(朔)・上弦月・満月(望)・下弦月 の日時刻 (年指定)
- 太陽のイングレス(星座宮境界の日時刻) の日時刻 (年指定)
旧暦カレンダーについて
太陰太陽暦は、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月間とし、そこに太陽の二十四節気を組み合わせることで作られる暦です。
太古、バビロニアの暦は太陰太陽暦でした。新年は春分から、1ヶ月は新月の日から始まっていたのです。太陰月と太陽年の調整のために、19年間に7ヶ月の閏月を加えていました。つまり、19年間のうち、7年間は1年が13ヶ月になるのです。この19年7閏月が太陰太陽暦の大きな特徴です。
日本書紀によれば、欽明天皇の時代に、百済から易、暦の二博士を迎え、そして推古天皇の時代(西暦604年)、甲子の年の正月朔から暦日を用いたと記されています。
日本最初の暦は、中国の宋の時代に用いられた元嘉暦でした。
701年の大宝律令制定で、陰陽寮に暦博士が置かれます。元嘉暦の後、大えん暦、五紀暦、宣明暦が用いられますが、これらは漢暦と称されるものです。つまり中国で考え出された暦の作成方法で暦を作っていたのです。
その後、安井算哲(渋川春海)が中国で使用されていた暦を改良した大和暦を作成、それが貞享暦です。これ以降、宝暦暦、寛政暦、天保暦は、日本人によって暦法の改良が行われたものです。
なぜ暦の名称が違うのか。それは太陰太陽暦の算出に必要な天文計算方法が違うからです。暦の作成には、春分、夏至、秋分、冬至を基点とする二十四節気の観測の他に、朔(新月)の時刻が重要でした。太陽の1年は、365日と約4分の1日であることはかなり古くから知られていたのですが、月の満ち欠けの周期を正しく計算するのはやっかいでした。計算された朔の時刻が正確であるかどうかを判定するのは難しく、そのため、日蝕や月蝕の時刻の予測から暦の精度を確かめる時代が長く続きました。
日本では、明治5年に改暦が行われ、グレゴリオ暦が用いられることになりました。当時、西洋諸国の仲間入りをしようとしていた日本にとって、大きな意味を持つ改暦だったといえるでしょう。グレゴリオ暦が新暦と呼ばれたことに対し、それまで使われてきた天保暦(太陰太陽暦)は旧暦と呼ばれるようになります。
この改暦により、ついたちは、新月の日ではなくなります。15日に夜空を見上げても、月が明るく輝いているとは限らなくなってしまったのです。日本文化では、推古天皇の時代から、太陰太陽暦が用いられてきたのです。二十四節気はもちろんのこと、暦注に至るまで、その意味を知ることにより、日本文化の本質を深く理解することができるでしょう。
旧暦と暦注
いわゆる旧暦と呼ばれる暦は、明治の改暦以前に用いられていた暦を意味し、天保暦にあたります。
ここでは天保暦の計算方式に従った太陰太陽暦を作成し、干支、六曜、二十七宿などの暦注を記載します。
六曜は、今でもいろいろな場面で用いられますが、六曜の算出には、まず、太陰太陽暦の作成が必要なのです。
- 二十四節気(定気法計算)
- 天保暦には定気法が用いられています。これは黄道を角度によって24等分する方法です。二十四節気は、太陽の運行を計算して出しますから、これは太陽暦といえます。
- 二十四節気(恒気法計算)
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恒気法による計算方式で二十四節気を算出してみました。(本来、天保暦では用いていない計算方法です。)
当初の二十四節気は、1太陽年の長さを二十四等分して作成していたのです。 - 朔望月
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太陰太陽暦で重要なのは朔です。
朔は新月。太陽と月が重なる合(コンジャンクション)です。朔が含まれる日が、必ず太陰暦の一日となります。
望は満月。太陽と月が衝(オポジション)となる時。太陰暦の15日前後にあたります。必ず15日になるわけではありません。 - 太陽のサインイングレス
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黄道を運行していく太陽が、サインを変えるサインイングレスの日時です。
牡羊座宮の基点は黄道0度(春分点)で、太陽が春分点を通過する日時は、二十四節気の春分(中気)にあたります。
星座宮は30度の幅を持ち、太陽は12星座宮を1年間で一巡りします。つまり、サインイングレスは、中気(定気法)にあたるものです。
(一つの朔望月の中に、どの中気が含まれているかで、その月の呼称、閏月か否か、が決まります。例えば春分が含まれる朔望月はニ月と定めます。)