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筆者エッセイ

土星の憂鬱と感動

 たいていの人がそうであるように、私も、年末になると、まず、年賀状を出してはいけない宛先のリストを確認する。そう、喪中はがき。12月、暮れも押し迫った中で、ちらほらと届く喪中はがきには、さながら木枯らしに舞う落ち葉のような切なさがある。
 
 とにかく忙しい我が家では、年末、30日ぐらいになって、ようやく年賀状書きスタート。
 まず、年初に来た年賀状から、今年の喪中はがきに対応するものを削除する。神経衰弱みたいに2枚ワンセットでのけておく。(これは、来年に必要になるのである。)
 神経衰弱が終わったら、昨年、のけておいて喪中はがきのセットをプラスする。これで準備第一段階が完了し、その後、作業に入る。
 
 つまり、年賀状書きは、年末最後の大仕事なのだ。書き上げた年賀状を持ち、大晦日の夜は、たいていご近所のデニーズに行く。その帰り道、郵便局に寄って年賀状を投函、家に戻る頃には、遠くから除夜の鐘が聞こえてくる。これまでに、引越しを何回もしたが、このパターンは、長年ほとんど変わっていない。
 

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 今年1年間、いろいろなことが起こった。重大な出来事、失敗もあれば、成功もあって…。でも、その中でも、決定的なのは生死の別れ。「ああ、もうあの人はいないんだ。」鬼籍に入ってしまった人を、しみじみと思い起こし、冥福を祈る、それが我が家の年末なのである。年を重ねるごとに、別れる人たちは多くなっていく。あたりまえといえばあたりまえだけど。
 
 子供が無邪気なのは、別れを体験していないからだ。生の喜びに満ち溢れ、死の存在すら知らない。(仮に、体験したとしても、たぶん理解できない。)
 しかし、年を重ねるにつれて、別れの体験は増えていく。たいていは祖父母、そして大叔父、大叔母あたりから。ペットとの別れだって、それは悲しく、心の傷になる。忘れることなんて、できない。忘れたフリをしても、それは、心に残り続ける。人生上の失敗のように、やり直しすることができず、そして、本当の意味で納得することなんかできないのが、親しい人たちとの生死の別れである。
 
 老人が陰鬱なのは、無理からぬことだと思う。心の中に、たくさんの悲しみを抱えているから。
 諦めることで、それらの悲しみは静かに心の中に沈んでいく。まるで醸造酒の澱のように、心の中に沈んでいく想い。これこそが土星の憂鬱なのだろう。
 よく、後悔の念をかきたてられる、といような表現を使うことがあるけれど、まさに、澱のような想いが心の中でかきたてられると、それは、心全体を一瞬にして濁らせてしまう。そう、決して消滅することはないのである。
 
 年末といえば第九。そして悲愴2楽章。そう、年末はベートーベンが似合う。土星の憂鬱があるからこそ、人生の感動もある。(と私は思うのだが、しかしこれは、なんだか恥ずかしくなるぐらいに月並みな文章だよなぁ。)
 
 冷たい空気の中で、冬の夜空を見上げながら、私は時の流れを考える。ゆっくりと巡る天空こそが、時間の基本。天空に巡るさまざまな時の単位。太陽の一日、月の満ち欠けの1ヶ月間、そして季節の1年。火星の2年2ヶ月間、木星の12年、ドラゴンポイントの18年、土星の30年。
 
 人はよく「永遠」に憧れる。でも、「永遠」という言葉は、何もかもが静止してしまう状態を意味する。静止してしまえば、何も変らない。変らなければ、それはたしかに「永遠」だ。そう、まったく動かない世界でしか「永遠」はありえない。それは、時が支配しているこの世界では、不可能なことなのだ。だから天空には「永遠」はない。永遠の宇宙などという言葉は矛盾している。
 さまざまな時のめぐりの中で、これまでの1年間をふりかえり、そしてこれから1年の時について考える。そう、占いに興味がない人だって、時の流れを考えてしまうのが年末なのだろう。

秋月さやか


写真:素材辞典

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