筆者エッセイ
風にそよぐ葦の噂
言葉は風。話は風に乗って相手に伝わります。そして噂は風のように広がります・・・。
昔々ギリシャはプリギュアの地にミダスという王様がおりました。かつて彼は、(自分が望んだことだとはいえ)、手に触れたものすべてが黄金になってしまい、飲まず食わずで死にかけたという悲惨な体験をしたことがあります。それ以降、彼は黄金に興味をなくし、自然を愛する日々を送っていたのですが・・・。
ある時、牧神パーンと太陽神アポロンが音楽比べをいたします。牧神パーンは葦笛で、太陽神アポロンは竪琴で。
審査員たちがアポロン神の勝利を宣告するなか、ミダス王だけが牧神パーンを支持します。葦笛の素朴な音に惹かれるものがあったのでしょう。
しかしアポロン神は、それが気に入らない。ミダス王の耳を驢馬耳に変えてしまうのです。優雅な音楽を聞く耳がないなら、驢馬の耳で充分だ、と。アポロンの竪琴と、牧神パーンの葦笛では、個性がまったく違い、比べること自体が無理だった、と私は思うのですけどね。
もしかしたらこれは、本当のことを言ってはいけない、という戒めなのでしょう。でも、感じたままを言ってはいけない状況というのは、ある意味、真の芸術鑑賞にふさわしくない状況で、困ったことではありますが。世の中というのは、どこかそうした窮屈さがあるもの。
ミダス王は驢馬耳を隠すため、帽子を被ったままで過ごします。帽子を取るのは、独りになった時だけ。帽子を取って鏡を眺めると、顔の両脇には、ぴょこんと驢馬耳。こんな耳のままで、人前には出られません。しかし、伸びてくる髪を放っておくことはできずに・・・。つまり、お抱えの床屋だけは、彼の驢馬耳を見てしまいます。ミダス王は、床屋に堅く口止めをするのですが・・・。
絶対言うべからず、と言われたことほど人に言いたいのは誰しも同じ。我慢できなくなった床屋は、野原に穴を堀り、その穴に向かって叫びます。「王様の耳は驢馬の耳〜」「王様の耳は驢馬の〜」「驢馬の〜」「〜〜〜驢馬の耳!!!」・・・と、思いっきり叫んで、「ん〜、すっきりしたっ!」と、ストレス解消。しかし、どうやらたびたびこれを繰り返していたようなのです。
やがて野原に葦が生い茂りました。そして葉を渡る風のざわめきが、こうささやくようになったのでした。「王様の耳は驢馬の耳〜」「王様の耳は驢馬の〜」「王様の耳は〜」「〜〜驢馬の耳〜〜」
噂とは風のように伝わってしまうもの、という教訓話と解釈すべきでしょうか。あるいは葦のそよぐ音でさえ、ミダス王の耳にはそう聞こえてしまったのでしょうか。
牧神パーンの持ち物は葦笛。葦笛は葦から作る。それなのに、その葦が「王様の耳は驢馬の耳〜」とささやくというのは、ちょっと酷くないか?と、この話を読んだ時、私は、子供心にも思ったものです。
葦は、弱い人間をあらわします。人の噂をそのまま風に乗せてささやくだけ。「ねえ知ってる?」「ねえねえ、こういう話」「でね、だからね・・・」。たしかにそれは、まるで風にそよぐ葦のざわめき。まあ、ささやき続けるだけで、悪気はないのでしょうけれど。
しかし、驢馬の耳なら、きっと、人間の耳には聞こえない声や音も聞こえたはず。人の耳には、人の噂しか聞こえませんけど、驢馬の耳には、もっと他の音が聞こえていたはずなのです。
だいたい、驢馬の耳だからこそ、そんなつまらない噂なんて、聞き流せばよかったのに、とも思います。日本には「馬耳東風」という言葉があるぐらいですから。馬耳東風の馬たちは、きっと、世の中の噂とは無縁の、もっと他の音を聞いているのではないかな、と思います。だって、気持ちよさそうなあの顔を見ていたら・・・そうとしか思えませんからね。
「余の耳は驢馬の耳であるぞ〜 だからといって、何が悪い?」と、さっさとカミングアウトしちゃって、耳を澄ませばよかったんです。
妖精の耳って、尖っていて、大きな耳で描かれていますよね。あれは、人間には聞こえない獣や鳥たちの声を聞くため、なんです。
参考資料:ギリシャローマ神話事典 Mグランド・Jヘイゼル著 大修館書店
写真:北海道にて筆者撮影
昔々ギリシャはプリギュアの地にミダスという王様がおりました。かつて彼は、(自分が望んだことだとはいえ)、手に触れたものすべてが黄金になってしまい、飲まず食わずで死にかけたという悲惨な体験をしたことがあります。それ以降、彼は黄金に興味をなくし、自然を愛する日々を送っていたのですが・・・。
ある時、牧神パーンと太陽神アポロンが音楽比べをいたします。牧神パーンは葦笛で、太陽神アポロンは竪琴で。
審査員たちがアポロン神の勝利を宣告するなか、ミダス王だけが牧神パーンを支持します。葦笛の素朴な音に惹かれるものがあったのでしょう。
しかしアポロン神は、それが気に入らない。ミダス王の耳を驢馬耳に変えてしまうのです。優雅な音楽を聞く耳がないなら、驢馬の耳で充分だ、と。アポロンの竪琴と、牧神パーンの葦笛では、個性がまったく違い、比べること自体が無理だった、と私は思うのですけどね。
もしかしたらこれは、本当のことを言ってはいけない、という戒めなのでしょう。でも、感じたままを言ってはいけない状況というのは、ある意味、真の芸術鑑賞にふさわしくない状況で、困ったことではありますが。世の中というのは、どこかそうした窮屈さがあるもの。
ミダス王は驢馬耳を隠すため、帽子を被ったままで過ごします。帽子を取るのは、独りになった時だけ。帽子を取って鏡を眺めると、顔の両脇には、ぴょこんと驢馬耳。こんな耳のままで、人前には出られません。しかし、伸びてくる髪を放っておくことはできずに・・・。つまり、お抱えの床屋だけは、彼の驢馬耳を見てしまいます。ミダス王は、床屋に堅く口止めをするのですが・・・。
絶対言うべからず、と言われたことほど人に言いたいのは誰しも同じ。我慢できなくなった床屋は、野原に穴を堀り、その穴に向かって叫びます。「王様の耳は驢馬の耳〜」「王様の耳は驢馬の〜」「驢馬の〜」「〜〜〜驢馬の耳!!!」・・・と、思いっきり叫んで、「ん〜、すっきりしたっ!」と、ストレス解消。しかし、どうやらたびたびこれを繰り返していたようなのです。
やがて野原に葦が生い茂りました。そして葉を渡る風のざわめきが、こうささやくようになったのでした。「王様の耳は驢馬の耳〜」「王様の耳は驢馬の〜」「王様の耳は〜」「〜〜驢馬の耳〜〜」
噂とは風のように伝わってしまうもの、という教訓話と解釈すべきでしょうか。あるいは葦のそよぐ音でさえ、ミダス王の耳にはそう聞こえてしまったのでしょうか。
牧神パーンの持ち物は葦笛。葦笛は葦から作る。それなのに、その葦が「王様の耳は驢馬の耳〜」とささやくというのは、ちょっと酷くないか?と、この話を読んだ時、私は、子供心にも思ったものです。
葦は、弱い人間をあらわします。人の噂をそのまま風に乗せてささやくだけ。「ねえ知ってる?」「ねえねえ、こういう話」「でね、だからね・・・」。たしかにそれは、まるで風にそよぐ葦のざわめき。まあ、ささやき続けるだけで、悪気はないのでしょうけれど。
しかし、驢馬の耳なら、きっと、人間の耳には聞こえない声や音も聞こえたはず。人の耳には、人の噂しか聞こえませんけど、驢馬の耳には、もっと他の音が聞こえていたはずなのです。
だいたい、驢馬の耳だからこそ、そんなつまらない噂なんて、聞き流せばよかったのに、とも思います。日本には「馬耳東風」という言葉があるぐらいですから。馬耳東風の馬たちは、きっと、世の中の噂とは無縁の、もっと他の音を聞いているのではないかな、と思います。だって、気持ちよさそうなあの顔を見ていたら・・・そうとしか思えませんからね。
「余の耳は驢馬の耳であるぞ〜 だからといって、何が悪い?」と、さっさとカミングアウトしちゃって、耳を澄ませばよかったんです。
妖精の耳って、尖っていて、大きな耳で描かれていますよね。あれは、人間には聞こえない獣や鳥たちの声を聞くため、なんです。
秋月さやか
参考資料:ギリシャローマ神話事典 Mグランド・Jヘイゼル著 大修館書店
写真:北海道にて筆者撮影
筆者エッセイ > 筆者エッセイ 風にそよぐ葦の噂
この記事のURL
https://www.moonlabo.com/akizukisayaka/fantasy/?OpDv=essay110701